蜻蛉日記
 
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多分最後の休日!
2月の公演に向けて動き出すが、自分の人生の本編が今までになく多忙になっているので、先の見通しもつかない状況。まあ、子どもが小さいころ気が狂ったスケジュールでやっていたことを思えばやれるか、と楽観的になりながらも、こんなにゆっくりできる休日は今日が最後と覚悟を決めている。
加えて、10年前は、若かったのだ、体が元気だったのだ、どんな無理もきいたのだ、対して今は、それはきかない。なぜかわからないが、この2,3日、あろうことか胃痛に悩まされる。
多摩高の同窓会のあとから。そんなに深酒したわけでもなく、訳あって一次会で失礼したぐらい節制したのにな。なんでだろう。
それで体重が減るのは喜ばしいことだけど、人生において、胃痛はなじみがなかったんだよねえ。胃が痛いって食欲が落ちるって、かなりテンション下がるよなあ。二日酔いでもないのにさ。
と言いながら、胃薬片手に、ワイングラス。胃の痛みもアルコールで緩和!!

それにしても、同窓会で、40年前のあの当時知らなかった話が沢山出てきて、人間の記憶ってあいまいね、と。いやその当時は知らされていなかったのかも。それってある種、ドラマだな、と。

全く、悲しくなるぐらい、お子様で、堅物だった私。
外見はある友人いわく、
「お人形さんのよう」だったんだって。
それもねー、内面とのギャップに苦しんだんだよなあ。

お人形とは程遠い我の強い人間だったんだから、な、あのころから。
ま、いいや。
今は今までにトライしたことのない、既製台本の「主演女優」という課題に全力投球。
シャンソン習わなきゃ。

今までと違う自分になれるのか?
久々の主役。
ラニョミリ13作目の六子以来。つまり2回目。

しかも、あれは自分の書いた本で、それが立ち行かなくなり上村さんの手を借りながらも、自分の地で芝居できたわけで。

今回の役はそうはいかない。
私の最も苦手な、「受け」の芝居がほとんど。

だからあんまり作りこんじゃいけないのかな、と。
事前に考えてガチガチに固めたらダメなんだろうな、と。

もちろん、無様な手、無様な肉体、とかのなにがしかの準備は必要なんだけれど。
やりすぎると固まるんだろうなあ、と、感覚的にそれは自覚。

だからってどうやればいいかは全く未知数。
最後まで苦しむ(苦笑

その延長上で、今回試みているのは、セリフは早い段階で完璧に入れ、
その後は稽古場で感じる、感じるから動く、自分の状態、ふり幅を大きくして、すべて本能的に、を目指す。

自分で書いておいて、
ええええ?そんな本能ないんだけどね。まあ、2がつまでのすぱんながいからじっけんか冒険。
今、極めて気を付けているのが、固定化しない、決めつけない。
自由に自由に、心も肉体も。

それで、一ミリで変化できたら収穫としよう。
苦しくも楽しい芝居稽古。明日が楽しみ。


シャバアーサナ
ヨガが大好きなのは、自分が気持ちいいことしかしない、というスタンスだから。
シャバアーサナ(=屍のポーズ)という、ヨガの最後に、暗くして、休む(=一度ほとんど爆睡して、先生に起こされたことがある)形があるが、この10分の眠りは一晩の眠りに相当するほど深いそうだ。

そして、昨日のヨガの先生曰く、「ヨガは気持ちのいいシャバアーサナのためにやっているようなもの」と。
呼吸を深め、体を柔軟に、インナーマッスルを鍛え、体幹を鍛えるのは、最後の脱力・お休みの気持ちよさを味わうため。

うん、これが本当に気持ちいい。しあわせ。
というか、時に、ヨガの途中で、体がすごくゆるんで、立っていても眠りそうになることがある。
あんなに力入れることばかりが得意な自分の体が、と不思議である。

そして、何よりも、自分の体の状態を見つめられるようになってきた。
ああ、ここが凝ってるな、とか今日は気持ちがいいな、とか、疲れてるな、とか、意識できるようになった。

私は基本的にとても怠け者で、だらだらしていたい。
眠りは浅いけれど、ごろごろしていたい。

そんな私にぴったりなヨガ生活。しかも、ホットの。これは人生の必須になってきた。

「死ぬ気まんまん」
これは、「百万回生きたねこ」の作者であり、谷川俊太郎の妻だったこともある、あの佐野洋子の本のタイトル。
彼女はがんで亡くなった。72歳?74歳?

告知を受けて、あと2年と言われて、「私死ぬんだあ」とみんなに言って回ったら、意外に元気でもうちょっと生きた、なんてことが書いてある本。

そして新鮮だったのは、死ぬのをちっとも怖がってないこと。
壮絶な闘病記なんて大嫌い、日教組の敵で本望、なんて書くあまのじゃく、究極のわがまま。

タイトルは、佐野洋子の息子が、
「うちのおふくろ、最近、死ぬ気まんまんなんですよね。」と言ったところから取ったそうな。

少し前に、茨木のり子の評伝を読んだが、それもまた面白かった。
夫を40代でなくした茨木は70代まで一人ぐらし。

持病もあったし、死に支度を粛々としていた。

葬式はしない。
私が死んだら、知人に出してほしい手紙というのを残していて、
生前の付き合いへのお礼の言葉と、「私が死んでもお花も何も送って下さいませんように。残された人が困るだけです。
あ、あの人も行ったか、と一瞬気にかけていただければそれだけで十分です。どうもありがとうございました。」というような内容だった。

何だか心打たれた。

若いころ訳も分からず死ぬのが怖かったのが嘘のよう。
いつ死んでも本望、と思える生き方がしたいと思う。
死ぬのは、ゆっくり休むのに似ている。
もちろんそれを、自分で、自死のように選ぶことはしない。
全て流れに任せ、自然に任せ。

死にざまは生きざま。

もちろん、どうなるかわからないけれど、
できれば最後の時まで人間らしくありたい、
人間らしく死にたいと思う。

だから、今年から、エンディングノートをつけ始めた。

人生の中で最も多忙な日々
そういうことがあるのだろう。
昨年、そして今年の手帳の、書き込みのすごいこと。
忘れてしまうので、こなすべきことを書き出し、それを消していっている。それがまあ、大変な量に。

特に、この4月から加速している。
勿論、好きなこと、得意なことを優先してはいるのだが、
処理能力が問われていると思う。
しかも面白いから夢中になってしまう。

で、これが最も嵩じた状態が、いわゆる長時間労働の職場なのかもな。
もう疲れて、早く退職したい、という声を、同級生から何人も聞いた。
仕事に関してはまったく私はそう思わない環境にいるのだけれど、
プラスアルファがかなりきつい。
長時間労働の職場にいたら間違いなく、とことんやってるね、危ないね、と言われた。

まるで半分専従のような。

だから。何事も好きでやる。
だから、ちゃんと、手を抜く(苦笑。
それができたら、つぶれないよなあ。
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